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底のない恐怖

『人は独りでは生きていけないんだよ』

酒に飲まれた母と対話する時、高確率でこの言葉が“娘”のことを突き刺した。

みなまで云わずとも分かる。その後に続くのは、要するに「もっと人と関わりなさい」という母なりのエールだろう。

正確には、エールという皮を被せた憂いかもしれない。未だひきこもりから脱していない“娘”への、母親からの切なる懇願だった。

何度咀嚼したか知れないくらい耳にしたその言葉を聞く度に、

『ごめん』

と心の中でだけ、“娘”は呟くのだ。

なぜ「心の中でだけ」なのか。

その気持ちに嘘はない。が、正確でもないからだ。

世捨て人のごとく社会から離れここまで息をしてきたのだとしても――いや、だからこそ、“娘”は母のその言葉を、或いは本人以上に重く受け止めていると自負していた。

あまりにも単純な話だ。

他の誰でもない己自身が、「独りでは生きていけない」の最たる体現者なのだから。

屋根の下で寝て起きて、食事を食べて、興味のあることに逃げて――平然と繰り返されるこの暮らしができるのは、一体どれだけの人の支えがあるおかげだろうか。

「ありがたい」「申し訳ない」を意味が無くなるくらい繰り返した。

誰に何を伝えるわけでもなく、思いの丈を話す勇気もないのだけれど、延々と脳みそだけは“娘”を置き去りに回り続ける。

「気兼ねなく話ができる」という存在は、交流の機会をとっくに切り捨ててしまった“娘”からしたら正真正銘無縁の話になってしまって、他人事の域を出ない。

けれど下手したら、そういう人が身近にいてくれるというのは、お金があること以上に裕福なんじゃないかと考える。お互いがそうなれたらきっと理想だろう。

家族でさえ、時としてその枠組みからは外れてしまうものだから。

分かってはいないが、理解っている。

 

――ならばなぜ、未だに“君”は人と関わるのを拒絶するの。

 

鏡向こうの自分からの投げかけは、至極当然の指摘だ。いっそのこと、もう相談してみればいい。

不登校の時期まで換算してしまったらもう十年近くだ。一人では解決できない段階など、とっくのとうに過ぎているんじゃないか。

しかし、“娘”の言い訳も頑なだった。

 

――僕は、“僕”として誰かと交流したことがきっとほとんどなかった。まともに型にもはまれない奴はお呼びじゃなかったから。

 

妄想にごっこ遊びにと、非現実的なことばかりに浸る嗜好。精神障害のある父親がいる家庭。

“自分”を構成するものが「浮いている」ということを察するのにそう時間はかからなかった幼き日々。

馴染む努力をしてみた時期はある。両親の離婚をきっかけに引っ越し、あまりの関係値の無さに将来的な危機感を覚えた時だった。

交流し、信頼されるためには「好かれる人間を目指すこと」は必須だった。

弱いと思われたら終わるという先入観は、「強がること」をどんどん最低条件にさせた。

笑いたくもないのに笑い、遊びたくもないのに二つ返事で遊ぶ。

しかし、上手くいかないものは上手くいかないものだ。

繰り返し、繰り返し、繰り返し――。

 

その度にポツンと残っているのは、一体どこの“誰”なんだろうか。

 

ただ誰かに嫌われるだけの存在になって縁が切れるなら良かった。

でも、嫌われる前に“僕”が相手を傷付けてもいた。

傷付けたいわけじゃないけど、いつもどこかで誰かを傷付けていて、そのことで自らも勝手に痛みを感じて。

“自分”は端から何処にもいなかったというのに。

 

――そういえば、好きでもなかったバスケットボールを好きだと嘯いて続けたのも、母が嬉しそうにしていたからだった。

 

専門学校に入ってからも遅刻や不登校は治まらず、事あるごとに母親と喧嘩するようになっていた“娘”は、ある日気づいてしまった。

もうとっくの昔から、“自分”は鼓動を止めていたのだろう。

それはきっと、「父が精神障害者である」ということを周囲の人達に隠し、母や父をはじめとする「誰か」の顔色を窺う暮らしが当たり前になってからだったかもしれない。

きっかけなど分からない。特段、催促や強制されたわけでもなかった。

けれどある種の悟りの境地だった。

 

「誰かと関わる」ということは、「自らを殺す」と同義なのかもしれない。

 

これは強すぎる言葉だろうか。こういうことを考えたり感じたりすると、理由もなく罪悪感が湧いてしまう。

それ以降、小さなまま大きくなった“娘”は「人と関わること」の意義をほとんど見出せなくなった。

受け入れてもらえる“誰か”になろうと、必死になってしまうから。

互いに仮面越しで付き合い続ける普通が、無性に疲れてしまうから。

積もり積もる言い訳は、這い上がれない沼に等しくなって。

 

そしてズルズルと誕生した“ひきこもり”は言い訳を重ね、ここに徘徊している。

 

一人のひきこもり当事者として、「ひきこもりになる理由は簡単な一言で伝えられても、その中身は十人十色で、思ってるよりは一過性じゃないよ」とは語れるのかもしれない。

しかし残念ながら、世界の隅で蹲った者の言葉は何の役にも立たない。「成功者は語る」ってやつだ。

言動を受け入れてもらえるのは、何時だって「強くあれた人」にのみ与えられる特権なのだから。

それは別にいいことなんじゃないかと僕は思う。努力はやっぱり報われてほしいから。

だからこそ、“ただまともじゃない人間”に居場所なんか存在しないのだけれど。

 

――「まとも」ってなんなんだろうな、本当に。

 

あの日鼓動を止めた“娘”に代わって、今日も“僕”は呆然と時を浪費している。

あぁ結局、いつもこの足は竦むらしい。